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#346 29/01/03

日本に来た最初の英国人(三浦按人)

例によって「老生」はアマゾン・ドット・コムUSから、昨年英国で初出版された『サムライ・ウイリアムス』なる書物を買い込んだ。ウイリアム・アダムスこと三浦按人のことを書いた書物であり、著者はジャイルス・ミルトンなる英国人ジャーナリストである。副題は『日本を開いた冒険家』となっている。「老生」の見解では三浦按人だけによって日本は開かれたわけではない、と思うが出版社というものは書物の販売業者であるがため、売れそうな題名を付けたがる傾向があることも知っている。それを知らぬほど「老生」はウブではない。

16世紀の末、あるいは17世紀の初頭の頃、ヨーロッパから日本への旅は、ヨーロッパのどこかの港から、西アフリカに先ず向かう。そして南米先端を通りハワイ経由で日本へ向かうというものであったらしい。現代のジェット旅客機でさえも大変な旅である。

同書のプロローグ(1から7ページ)で著者は言う、『彼らは世界の果てに着いた。強烈な嵐が彼らを全く未知の世界、即ち当時の地図では、深海に住む怪物だけが描かれていた世界である。夜空は東洋的なきらめきが輝くが、未知の星空はこれら孤独で見失われた冒険家たちを惑わすガイドであった』。

さて、日本では「三浦按人」という名前が余りにも有名なので、つい本名のウイリアムス・アダムスを忘れがちである。「老生」は三浦按人のことを書物で読んで三浦按人を良く知っていると錯覚していたが、彼が日本へ初めてきた英国人である事実を忘れていた。ただ何となくオランダ人かポルトガル人かという印象を持っていた(本書を読むまでは)。

しかし、ウイリアム・アダムスという本名は間違いなくアングロサクソン名である。恐らく日本名の方が有名なのと、開国以前に日本の出島辺りに来ていたのはオランダかポルトガルだろうと安易に、かつ勝手に誤って決めてしまっていたのではないだろうか?史実としては1550年に平戸へポルトガル船が初めて入港し、その後、オランダの東インド会社が制限的に長崎出島に限り対日貿易が開始した。そのためにオランダかポルトガルという印象が「老生」の頭に焼き付いてしまったのであろう。ともかく同書のプロローグの紹介を続けよう。

『アダムスとクルー達は、勇ましく荒々しい海に船出した。いくつかの島々では槍を抱えた現地人と衝突したり、病気と餓えに苦しんだ。生き残ったクルーは西暦1600年4月12日に再び陸地を望見した。クルー達は今度こそ野蛮人達によって死を覚悟した。

『エリザベス時代のロンドンでは、日本の事を知るものはほとんど皆無であった。地図を開いて遠い東を見ても、わけの分からない線描きや点々とグロテスクな海の怪物が描かれているだけであった。1569年作成のメルカトール世界地図はこの国を二つの触手を持った菱形の島として描かれていた。エドワード・ライトの地図はまだ少しメルカトールのものより全体としてはましだったが、こと日本に関する限りは、ライトは自分勝手な想像の世界に踏み込み、綿毛のようなあごひげを持った不恰好な海老に似た形の島になってしまっていた。

『ライトは自分の地図こそ正しい水路学に基づいたものとプライドを持ってはいたが、片方では「これまでに発見された限りをベースとして正確に描いた」とも言っている。ところが、その地図には何と日本がなかったのである。

ここまで『サムライ・ウイリアム』を読んで「老生」の印象としては、16世紀末あるいは17世紀初頭当時のヨーロッパから日本への航海は、現代ではまるで冥王星への宇宙の旅のようだと思った。

「老生」は冥王星への旅と言ったが、考えてみると現在の我々は冥王星について相当なる知識がある。そこで「老生」はグーグル検索システムで冥王星を検索してみた。ほんの数秒で以下の情報が得られた:

「冥王星は太陽から最も離れた惑星であり、太陽系で最も小さい惑星である。月を含めて太陽系に存在する七つの月のどれよりも小さい。その軌道は平均して太陽からおよそ600万キロ、直径は2千274キロ。質量は1.27e22 kgという情報である。もちろん「老生」には27と22の間に挟まれた小文字の"e"

意味は分からないが、それは数学者には分かっていることで、「老生」自身が理解することが出来ぬことは専門家に聞けば分かることである。

「老生」思うに現在の天文学者が持っている宇宙地図はメルカトールの1569年の世界地図より遥かに精妙であろう。だから冥王星への旅はアダムスのヨーロッパから日本への旅よりは遥かに楽であろう。実行するかどうかは全く別問題であるが・・・・・

アダムスがオランダの港を出港したのが1598年8月。マゼラン海峡到着が1599年4月。日本到着(というより漂流してきた)は1600年3月。そして、日本の平戸で死んだのは1620年である。

初めて平戸に入港したヨーロッパ船はポルトガル船であった由。その平戸でアダムスが死ぬのが不思議な縁を感じる「老生」である。そしてアダムスの日本到着から400年後、その死平戸からにおける死から正確に383年後、「老生」は英国人をパートナーとした合弁会社を経営しているのである。

400年という時は一体長いと見るべきか、あるいは短いと見るべきか、大いに迷う「老生」である。1550年、平戸にヨーロッパ船として初めて入港したポルトガル船は、いかなる地図を持っていたのか、それとも平戸どころか、日本へは偶然で来たとしか考えられない。


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